極上の気分。秩父札所32番般若山法性寺(はんにゃさんほうしょうじ)奥の院
32番は札所の中でも 一番行ってみたい寺だった。岩船山の断崖絶壁に鎮座するお船観音。32番の奥の院だ。この日は11時に遠方からくる友人を西部秩父駅でピックアップして車で11時半ぐらいに寺に到着した。
山門は秩父札所唯一の鐘楼門だが、ただいま改修工事に入り、寄付を募っている状態。手前が駐車場、すぐそばにトイレもある。
奥の院のお船観音までは厳しい道とは聞いているが、札所なんだから、そんなほどでもないのでは?きっと1時間ぐらいで往復できるかも。2時ぐらいには どこかのお蕎麦屋で昼食。そんな甘い考えで出かけていった。 しかし、よく考えてみれば32番はかつては修験者の場。厳しい修行の場でもあったはず 。私は大きな思い違いをして、大変な思いでお船観音までたどり着いたのでした。
上に見えるのが観音堂。岩を削った階段を上って行く。三間四面の吹き抜け構造で舞台造りで、1707年(宝永4年)建立された。
観音堂の裏は岩窟になっていて、タフォニと呼ばれる円形や楕円の穴があき、珍しい光景が広がっている。
タフォ二とは、
観音堂の裏手は、大きな「タフォニ」という岩窟になっていて、中に蜂の巣状の多数の穴(ハニカム)が見られる。これは岩石の中の塩類が表面に染み出し、結晶化して岩石の表面を崩したもの。(ジオパーク秩父より)
子授け地蔵が安置されているところにちょうど日が差し込んで、とても神々しいしい。これを見るだけでも来た甲斐がある。
お船観音の扁額。弘法大師がここに来て大般若経600巻を写経したということに由来して、山号を「般若山」という。
大師が写経を終えて供養をしていると、山の頂に観音様が船に乗って、舵を取りながら空から降りてきた。大師はその姿を岩に彫り、舟の形をした岩に安置した。それがお船観音のいわれだ。こんな山奥で船に乗った観音様とは!取り合わせが奇妙にも思える。昔の人も秩父が太古の時代には秩父湾という海であったことを知っていたのかな?
ここが観音堂下にある、奥の院の入口。大きな岩の間をくぐっていく。岩の向こうには、違う世界が広がっているような。
さあ、記念撮影!なんて張り切る私。最初は健脚な友人とふたりで行くはずでしたが、 機会を得て四人で行くことになりました。私を抜かして3人は初体面。こういう組み合わせで行くことも、社交的でない私にとっては、とても珍しいこと。
色々なブログを読んでいると、 岩を削った足場と鎖が張られていてそれを伝って登って行くとある 。私に登れるだろうか?
岩をくぐった途端に急に道らしきものがなくなった。なんかいやな予感。そんな不安を持ちながら足を進めた。すぐに私は息があがっちゃうし、斜めがけしたバッグも友人が持ってくれた。所々段差があって、バッグがじゃま。ここはリュックじゃないとダメ。
途中、 迷いそうなところもあった。 友人が 大変なところを鎖で登っていった。私は下で とりあえず待ってたら、そっちには道がなかった。 後で友人は降りるのが恐怖だったと言っていた。
そこからなんとか正しい道に戻ってひたすら歩いた。結構滑るところもあったし。途中、段差があって引き上げてもらったり。
これは途中ににある十三磨崖仏。もっと手前にあるのかと思った。とりあえず記念撮影
そのあと、月に光と書いてガッコウと読む長い坂道を上っていくと、 やっと頂上に近づいてきたという感じがした。私は月光坂の写真を撮る余裕もない。
道標には大日如来。30 M 大船観音40 M と標識があり、まずは大日如来へ。
大日如来はすごく 狭い場所に祀られている。4人上ったら、もういっぱい。 下を見ると、吸い込まれそうになり、クラクラするので、ちょっと危険。仏像は江戸時代に作られたもの。どうやって運んだんでしょう。
大日如来に上がるための鎖。
次はお船観音。お船観音へ登る岩の前に ベンチがありました。P さんがおむすびを持ってきていて、 分けてくれました。水しか持ってこなかった私と友人。おむすびで力を得ました。その後、こちらも鎖を掴みながら、 お船観音に上る。ああ。やっと来た!
絶景!! 観音様は東を向いている。360度見渡せて、ここもまた足がすくむよう。でも空気が清々しく、 3人が初対面という取り合わせだけど、なんだかとっても楽しい、とっても気持ちいい! ここに登った者だけのご利益のように思えました。
山を下りてお蕎麦屋に向かいましたが、すでに2時を過ぎており、みんな閉店。秩父市内で豚みそ丼をいただきました。楽しくおしゃべりする私を遠方から来た友人は、「山では無口だったのに、息を吹き返したな(笑)」といわれ、お恥ずかしい限りの私でした。
私は足首の関節が悪いので、一時はただ歩くことさえしんどかった時がありました。それがみんなに助けられながらも、お船観音に上れたことは大きな自信にもなりました。もう、二度と上らないと思うけど(笑)
法性寺詳細
本 尊 聖観世音菩薩
宗 派 曹洞宗
長享番付 15番
住 所 埼玉県小鹿野町2661
☎ 0494-75-3200
website
駐車場 有
埋もれ行く頭のない石仏たち。秩父札所4番高谷山金昌寺(こうこくさんきんしょうじ)
石仏の寺といわれる4番。入口の仁王門も立派だ。2階には五百羅漢などが安置され、門の左右に置かれた仁王像は約21mだそう。秩父札所で最大の仁王像だ。仁王像の前には長さ2mほどの大わらじが奉納されている。仁王様のように健脚を願って、ということらしい。遠くからみるとこのわらじがキラキラと光っているのだが、これは1円玉がお賽銭のように付けられているから。
最初に訪れたのは雨の日だった。石仏がしっとりと濡れて、コケが生き生きとした緑色を放ち、しっとりとした風景を眺めることができた。頭のない石仏も数多くあると聞いているが、その日みた限りでは意外にそうでもないな、と思った。
現在、この寺には1319体の石仏がある。石仏の寺の由来は江戸時代の寛政年間、ここの住職が天災などがあったため、石仏の寄進を求めたことに始まるそう。かつては3千体以上あったらしい。様々な種類の石仏があり、多くは富裕層の寄進で、中には大名家の奥女中からの石仏(回向仏)も30体ほどあるようだ。
この日はグループで行き、次の予定もあったので、観音堂に置かれた隠れキリシタンのマリア像とも呼ばれる子育て観音などを見て、早々に立ち去った。
そして2日後。もう一度行ってみようと一人で行ってみた。前回は奥の院とよばれるところに行っていない。正規ルートのように道しるべがあるのは観音堂の裏手だが、私はそれを知らず、普通なら降り口になる方向からなんとなく、山道になっているので上っていった。距離はそんなにない。
えー!? 少し上ると、頭のない石仏がいっぱい。
下とはちょっと様相がかわる。
こちらが奥の院。
不整合といわれ地質の小さな岩屋からは地下水がしたたり落ち、弘法大師が祀ってある。岩屋の上にはひん曲がった木。私ひとり。空気は澄んでいて、静寂の空間。不思議な空間。
なぜ、石仏の頭はなくなったか?
ガイドブックには明治の廃仏毀釈の際にたくさんの石仏が破壊されたとある。それに関連して頭も無くなったか?
そのことを姉に言ったら、テレビ番組で、4番という覚えなないが、戦争のときに、兵隊にとられた人が無事に帰ってきたら新しい頭をつけるということで、たくさんの頭が取られたとか。そういう理由なら合点がいく気がする。
新しい頭をつけていたのは2体ほどだったので、たくさんの帰ってこなかった人たちがいるということなんだろうか。頭の代わりに石が置かれているものもある。作るお金もなかったということだろうか。それを思うとなんとももの悲しい。
4番は、秩父札所巡りでも人気の寺と思うが現在は住職さんもいない。3番が管理していると聞いた。小さな石仏たちは雨や風、植物に侵食され、いったいあと何年、姿をもつことができるのだろう。
なんだか妙に気にかかる。
金昌寺詳細
本 尊 十一面観音菩薩
宗 派 曹洞宗
長享番付 25番
住 所 埼玉県秩父市山田1392
☎ 0494-23-1758
website
駐車場 有
鉱泉と海老虹梁の彫刻。札所3番岩本山常泉寺(いわもとさんじょうせんじ)
3番は高篠と呼ばれる、大きく、古くからの農家が多い(と思う)エリアにある。行った翌日は『山田の春祭り』ということだった。屋台は組み立て中ということで、秩父屋台囃子が遠くから聞こえてきた。正面は本堂。弘化4年(1847年)に焼失したが、安政5年(1858年)に再建されたそう。
入ってすぐに本堂があり、左手に長命水がある。飲料不可とあり、この井戸のポンプも動かないようだった。衛生上の問題でこうなってしまうのだろうけど、楽しさ半減してしまう。
これは『秩父観音霊験記』にも記されている子持ち石。本堂前にあった。妊娠中の女性を連想させる、なめらかな曲線。この寺の寺宝だそうだが、だれでも気軽に触れるようにと本堂前においてあるそうだ。
本堂裏手は裏山が迫っていて、その壁面にお地蔵様が並んでいる。こういう光景は札所っぽいなあと思う。そして、本堂のちょうど裏に『鉱泉』と書かれた井戸のようなものがあった。泉質は単純硫黄冷鉱泉。後で住職さんに「鉱泉が出るんですね」と尋ねたら、なんか入れ物があれば汲んであげる、と言われた。そういえば、このあたりには温泉宿もちらほらある。風呂おけ一杯分をいただくのは大変そうだけど、ちょっといただいて、お湯に混ぜてもなんかよさそうに思う。
この神様は誰なんだろう?ちょっと引きつけられる。よくみると、弓を持っている。そばにいるのはカラス?
左奥には階段を上がって観音堂がある。初夏にはあじさいが咲き、秩父のあじさい寺とよばれているそうだ。本堂と観音堂が分かれているのは、秩父札所では珍しい。観音堂は、明治3年(1870年)に秩父神社境内にあった蔵福寺から薬師堂を移築したもの。
これがこの寺の見どころともいわれている海老虹梁の竜の彫刻。海老虹梁は高低差の大きな「柱」を連絡するときに用いられるもので、S字に曲がっているもの。見事に装飾されている。こういうのをかご彫りというのだそうだ。
撮影禁止となかったので、観音堂撮影させていただきました。合掌。
常泉寺詳細
本 尊 聖観世音菩薩
宗 派 曹洞宗
長享番付 23番
住 所 埼玉県秩父市山田1392
☎ 0494-23-20503
website
駐車場 有
経蔵の仏像に惹かれる。札所13番旗下山慈眼寺(きかさんじげんじ)
境内には薬師堂があり、昔からあめ薬師でも知られている。とくに「眼病にご利益」があるといわれている。子供のときは初夏にある縁日(7月8日)に行って、白くて中にゴマが入っている飴を買ってきたものだった。あれはぶっかき飴というのだそうだ。水飴と白砂糖に黒ゴマをまぶして煮詰めた塊で、それをナタでかき割ることからぶっかき飴となったそう。
なんと行かないうちに、このぶっかき飴の販売はなくなってしまったそう。代わりに地元の菓子屋が「薬師のあめ」として販売をしているそうだ。あまり美味しかったという記憶もないが、なんか悲しいことである。
この13番というのは西武秩父駅や秩父鉄道のお花畑駅からも近く、旧市内の中心地にある。観音堂にも入っていいとのこと。どこにも撮影禁止という札がなかったので、撮影させていただいた。天井には江戸から明治にかけて活躍した井上甲山という画家の絵がある。そこにウサギと松の絵があり、今年の兎年にちなんで、特別のご朱印をデザインしたと、門に貼ってあった。私は見つけられなかったが。
鳥や動物が描かれているが、わからなくなっているものもある。
観音堂は札所1番に似せたそう。小さいけれど、彫刻がたくさん施されている。方三間、正面千鳥破風、唐破風様流れ向拝付き、銅瓦葺き入母屋造り。
軒下は三手先(みてさき)の組物。3段に組まれていると理解すればいいのか。
これは獏でしょう。鼻が獏らしく長いです。
彫刻を下から見るのも面白いですよね。力強く彫られていると感心。
秩父唯一の経蔵。一切経1630巻が納められた六角輪蔵。まわすことで一切経の功徳にあずかれといわれている。一切経は釈迦 (しゃか) の教説とかかわる、経・律・論の三蔵その他注釈書を含む経典の総称。 大蔵経 (だいぞうきょう) ともいわれている。一人で回すことを試みたが、重くて回らず。あまりにも非力なのか?
13番の本堂は、明治11年(1878年)の秩父大火で焼失。そして明治34年(1901年)に一番四萬部寺の本堂を模して再建された。この仏像は大火を逃れた。しかし、今はガラスケースの中。何をもって、こういう待遇になってしまうのだろうか?いいお顔をしていると思った。
経蔵には13権者像がある。13権者は性空上人とともに秩父札所を創建した神々と人々。いつもたくさん仏像がある場合は、どれが自分にとって一番興味深いかを感じるようにしている。ここでは妙見大菩薩だった。妙見大菩薩は秩父神社の主神。そして北極星を神格化した神様。となると、私がかつて住んでいたタイ・プーケットのお祭りの主神、九皇大帝(北極星にまつわる、道教の海の神様)につながる。私はこの祭りが大好きで、陰暦9月に9日間行われるベジタリアンフェスティバル(タイ語でキンジェー)に熱狂していた。ちなみに九皇大帝には姿形がない。なにかとつながりを感じてしまう私なのだ。
境内。
山門。
慈眼寺詳細
本 尊 聖観世音菩薩
宗 派 曹洞宗
長享番付 4番
住 所 埼玉県秩父市東町26-7
☎ 0494-23-6813
website
駐車場 有
不思議な空気。札所2番大棚山真福寺(おおたなさんしんぷくじ)
高篠山の中腹に建つ真福寺。元々は秩父札所は33番までで、真福寺が16世紀初頭に加わり、秩父札所34番になったそうだ。元々の寺の起源は
大棚山中の鬼丸窟に修験層が安置した聖観音を、鬼丸窟が崩壊した後に、現在の寺から南東900mにある大棚古堂に移し、これを真福寺と呼ぶようになったそうである。(秩父札所 清水史郎著)
江戸時代初期に光明寺の末寺となり、真言宗から曹洞宗へ。光明寺が現在の位置に山門、観音堂、本堂などが建つ壮麗な寺院に真福寺を復興させたそうだ。しかし、1860年の火災でほとんどが消失。明治になって観音堂だけが再建された。
現在は無人のひっそりとした寺で、往時の面影はないが、観音堂の窓の格子は円を組み合わせた花狭間というのだそう。こんな細部の細工に、往時が偲ばれるといえるのか。
観音堂横に枝を伸ばすツバキ。幹はコケに覆われ、不思議な雰囲気を感じた。
駐車場からこんな小道を上って観音堂にでる。友人と一緒に行ったのだが、この崖に小さなお地蔵様や観音様が安置されている。
駐車場そば、境内入口に建つ観音様
駐車場前。11月に行ったのだが、梅が咲いていてびっくりした。調べてみたら、冬至梅という種類らしい。野梅性の早咲き品種だそう。ここが特に不思議な空気があった。時間が止まっているような。グーグルマップの口コミを見ていたら、「この寺にはなにかある」という口コミや、この梅の木あたりに鹿のウンチ発見とかもあった。鹿も出てくるの?という感じ。すぐ近くに人家があるのに、隔絶間がある空間。もう一度行ってみないと。その感覚が残っているか。
ご朱印は光明寺で。光明寺の住職さんは魚が好きらしく、大きな水槽がたくさんあった。アヒルも対で飼っていたが、行った日の前日に一羽が食べられてしまったということだった。
真福寺詳細
本 尊 聖観世音菩薩
宗 派 曹洞宗
長享番付 番外
住 所 埼玉県秩父市山田3095
☎ 0494-22-1832(光明寺)
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駐車場 有
閻魔大王の手形が残る。札所25番岩谷山久昌寺(いわやさんきゅうしょうじ)
この札所巡りをポツポツはじめようと思った時から気になっていたこの久昌寺。閻魔大王の手形、お手判があるということでとても興味を持っていた。この手形、日本製?って思う。インドとかにその起源はないのかなあ、と思う。どうやってあの不思議な形が生まれたのかと興味深々だった。
山門には仁王像が置かれ、結界石がある。ひとつの結界石には、
不許葷酒入門内とあり、その意味は
[葷酒、門内ニ入ルヲ許サズ
=くさい野菜は不浄なため、酒は浄念をみだすため、ともに清浄な境地である寺門内に入ることを許さぬということ。(広辞苑)
このお手判の本物は石に彫られていて、お寺の寺宝となっている。このお手判の由来は秩父札所を開いた一人といわれる性空上人が地獄に招かれ妙典1万部をとなえた証として、閻魔大王から石作りのお手判(印鑑)と証文を賜った。お手判は久昌寺に、証文は西国24番中山寺へと渡ったそう。このお手判は1枚500円で購入できる。私はもちろんいただいて、部屋に飾っている。
これを持っていれば、地獄もスムースに通過することができるというようなことをガイドブックで読んだが、寺からいただいた略縁起には、いつも身も心も守られ、理想の世界に導かれる、とある。こちらのほうが、ありがたい解釈に思える。もうひとつ、左下に押されている印鑑がこれまた宇宙的な絵柄を思う! さらに左巻きの大きな渦と右巻きの小さな渦にも意味があるんじゃないだろうか?
観音堂。方3間、流れ向拝付きの宝形造り。1721年建立。本尊の聖観世音と閻魔大王が安置されている。
この写真は観音堂前の岩壁。最初ここを見たとき、なにか神々しさを感じた。とくに杉の木。でも、カメラにそれを写すことができないのは、いつも残念に思うこと。
「観音霊験記によれば、久昌寺の起こりは。性格の悪いある女がいて、あまりに悪いので荒川に投げ込まれたが、一命を取りとめ、久那の岩やに住み着いて女の子を生んだ。その子が15歳のときに母親は死んだ。女の子は母親と違って性格の良い娘で、母の菩提を弔うために観音堂を建てようと、旅僧と一緒に寄付を求めて村々を回った。それに感心した村人たちが協力し、娘が育った岩屋の前に観音堂を建てた。
昭和に発行された清水史郎さんの著書には、その当時、堂前の樹木の中に高さ5Mほどの岩があったそう。彼はそれが岩屋の名残かと、推測している。現在はそれも見当たらず、住職さんにも、この近くに岩屋があるかと尋ねてみたが、ないのでは。ということだった。
それに岩壁は数年前にも崩落したそう。私は自分の家のそばにある17番も、霊験記に女が近くの沼にこどもを捨てたというくだりがあり、かつては本当に沼があったので、まんざら創造で書かれているとは思っていない。
付け加えて、本尊は最初、観音堂の裏手にあった岩屋に安置されていたとある。
これは観音堂の獏の彫刻。獏は縁起が良い動物とされている。この獏は鼻が短いようだ。
久昌寺の特色は、
①このお手判があるのは日本百観音でも久昌寺だけ。
そして岩壁が迫り、西日しか当たらない観音堂と、弁天池を挟んでさんさんと日を浴びる本堂の対比。単純に気温をとっても、天国と地獄ほどの違いがある...
本堂と納経所
お寺の倉には、久那の笠鉾もしまわれているそう。住職さんは76歳の元気な方だが、子供のころにこの笠鉾を曳いた記憶があるが、もう数十年この笠鉾はこの倉から出されていないそうだ。横瀬村や高篠地区にも笠鉾はあるのは知っているが、久那にもあったとは! この住職さんの話によれば、せめてお祝い事の時に飾るだけでもとがんばってみたが、人手がないということで叶わなかったそう。秩父市は2050年だったか、消滅する市にリスティングされているそうで、秩父夜祭の山車や笠鉾が、この久那と同じ境遇になってしまう可能性があるのは、お祭り好きな私としては、なんとも悲しい。
久昌寺には、また来たい。弁天池に水が溜まり、蓮の花が咲く頃にはずいぶん印象も代わるかもしれない。
久昌寺詳細
秩父札所29番 笹戸山長泉院(ささとさんちょうせんいん)
庭も美しい、石札堂とも呼ばれる、平安時代からの寺
お庭がきれい!という印象の札所29番長泉院です。本堂は間口7間奥行き5間半の入り母屋造りです。今まで見てきた寺は方形造りばかりだったので、質素な外観ですが、なんだか新鮮で大型の寺と思えます。江戸末期(1827年頃)の建立です。観音堂は焼失し、再建はされていないそうです。
長泉院は平安時代、性空上人が巡礼の際に納めた石札があることから、石札堂とも呼ばれています。石札は長さ24センチ、幅9センチで『石札定置巡礼』と書いてあるそうです。秩父札所の歴史の中で一番古い平安時代からの寺のひとつです。
ちなみに性空上人は平安時代の天台宗の僧で、九州で山岳修行に励んだことで知られています。
寺の入口にある枝垂れ桜の『よみがえりの一本桜』。かつては大きな松の木に日を遮られて枯れそうになったのですが、ダム工事でその松が伐採され、この桜もよみがえったのだそうです。右手には茶畑が広がり、済々として気持ちがいい。
本堂内部。
良く見えませんが、本尊は聖観世音菩薩、寄木造りで藤原時代のもの。
隣の部屋には葛飾北斎作といわれる『桜図額』。はっきりいって良いのか、悪いのか?ここからはよくわかりません。でも遠目に見ても保存があまりよくないように思います。
こちらは花鳥の画、とあります。
本堂前に安置された奪衣婆(三途婆)。三途川(葬頭河)で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼です。前に19番で見たこの婆はそんなに気味悪い形相をしていなかったけど、こちらの婆はなんとも怖かった。
やはり本堂前に置いてあったこの石に彫られたものはなんでしょうか?
お地蔵様の奥は竹林。
こういう苔生した庭は秩父ではあまり見ないような....。
これはソメイヨシノ。最初はこれがよみがえりの桜かと思ったほど立派な枝ぶり。
納経所。とてもきれいです。
寺から入口に向かっての風景。茶畑が見えますね。
長泉院詳細